私たちは知っていました。私たちの地上の棚が取り壊されたら、神が作らなければなりません。人が作ったものではありません。天に永遠に残る家です。
私たちはこのテントの中でため息をついて、空から来た家が服を着ているように思えた。
着ていれば、出会った時に裸になることはない。
私たちはこのテントの中で、苦労を嘆いて、これを脱ぎたいのではなく、それを着たいのです。これは命に飲み込まれて死ぬということです。
そのために私たちを育ててくれたのが神で、彼はまた私たちに聖霊の証憑を与えてくれた。(原文作質)。
だから私たちはいつも平然と恐れず、私たちが住んでいることを知って、主と離れています。
私たちが人として行動するのは、自信によるものであり、目で見るものではないからだ。
私たちは平然と恐れていない。体を離れて主と一緒に住みたいと思っているのだ。
だから自分の中に住んでいても、外に出ても、私たちは志を立てて、獲得する喜びを求めています。
私たちみんなは、キリストの前に現れて、自分の行ったことや善や悪に応じて報いるようにしなければならないからです。
私たちは主が恐れるべきものであることを知っているので、人に勧めるが、私たちは神の前で明らかであり、あなたたちの良心の中でも明らかになることを望んでいる。
私たちはあなたたちに自分を推薦するのではなく、あなたたちに私たちには誇れるところがあるので、外見で心で誇張しない人には、答えることができると言っているのです。
私たちがもし狂ったら、神のためです。もし謹んで守るならば、あなたたちのためです。
キリストの愛が私たちを励ましてくれたのか。私たちは一人がみんなのために死ぬと思っているので、みんなが死んでしまった。
そしてかれが人びとのために死んだのは、生きている者たちに、もはや自分のために生きるのではなく、彼らのために死ぬために復活させる主のためである。
だから私たちはこれから、外見(原文は肉体本節と同じ)で人を認識しなくなった。外見でキリストを知っていたが、今ではそうは思わない。
キリストに誰かがいたら、彼は新造の人だ。昔のことはもう過ぎて、すべて新しいものになった。
すべては神から出ていて、彼はキリストによって私たちを彼と仲直りさせ、また人と彼との仲直りを勧める職分を私たちに与えてくれた。
これは神がキリストの中で人々に自分と仲直りさせ、彼らの過ちを彼らに帰さないようにすることである。そしてこの仲直りの道理を私たちに託した。
だから私たちはキリストの使者として、まるで神が私たちに勧めてくれたかのように。私たちはキリストのためにあなたたちと神との和解を求めます。
神使の罪のない(罪のない原文は罪を知らない)は、私たちのために罪になる。私たちが彼の中で神の義になるようにしましょう。